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イノベーティブな人材育成 [教育について]

ずいぶん久しぶりなのだが、書かずにはいられなくなって久しぶりに書いてみる。

冷泉彰彦 「グローバル人材を育てるにはどうしたらいいのか?」  ニューズウィーク日本版 「プリンストン発 新潮流アメリカ」  2012年05月18日(金)

いつも読んでいる内田樹氏のブログ記事にあった「利益誘導教育の蹉跌(2012.5.11)」という文章を読んでのことである。内田氏の文章を私がどう読んだかについては最早価値がないので述べないことにする。冷泉氏はそこからスタートして非常に示唆に富んだ文章を上梓している。中でも次の指摘が最も重要だと思った。

(2)「イノベーティブ」な人材は「能力計測不可能」というのがそもそも間違いです。抽象概念の操作の力、確信に満ちた表現力、その背景にある情報量の多さ、情報に対する取捨選択力、他者との関係性におけるイニシアティブの取り方、多様な価値観の受容と安定的な観点の確立など、様々な角度から人材を評価することは可能ですし、またこうした技能を積極的に伸ばす教育が高校までの中等教育で整備されなくてはならないと思います。


全くその通りだと思う。はやりの表現を使うと「コミュニケーション能力」とかいう話になってしまって違うと思う。改めて箇条書きにしてみると

・抽象概念の操作の力
・確信に満ちた表現力
・その背景にある情報量の多さ
・情報に対する取捨選択力
・他者との関係性におけるイニシアティブの取り方
・多様な価値観の受容と安定的な観点の確立

である。なんと! これは私が日常学生に対して行っているゼミの基本ではないか!

もういちいち述べない。

ちょっと意を強くしたところである。

確かに脳死だ [社会の問題について]

こんな本を読んでいる。


報道の脳死 (新潮新書)

報道の脳死 (新潮新書)




著者は朝日新聞を退社してフリーで活躍するジャーナリストである。Twitter 上でも @hirougaya は大活躍である。

氏がtwitter上で数々述べてきた、大手マスコミの体たらくぶりを大きくまとめ、現状に対して警鐘を鳴らしている本だ。なかなか面白い。(全部読み終わったら、この辺を少し書きたそうと思う)

そんなことを思っているうちに、同書が指摘するようなひどい新聞記事を見てしまい、思わず書きたくなった。

2012.4.23 朝日新聞(大阪本社版)社説 「大学改革」~授業と入試を一体で

話は文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会の審議内容とそれに関連して文部科学省サイドが言っていることを指すようだ。2012年03月26日 「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(審議まとめ)

この社説はまだ穏当である。大学改革の中に、授業改革は当然主要な位置を示す。実際、ずいぶんやっているところも多い。だが入試に問題があるために、本来大学入学前に身につけておくべき能力が備わっていない大学生が多いようだ、だから授業改革もなかなか実を結ばない、だから入試改革を、というような文章だ。

一応、我慢できるが、これは誰に向けて投げている文章なのかよくわからない。問題は大学にあるのではない。大学入試の制度に関する、文部科学省の硬直化した体制が問題なのだ。前から言っていることだが、入試制度の改革なんて簡単だ。国立大学に大学入試センター試験の使用を義務づけることを止めればいいのだ。そうなれば東大や京大を始め、旧帝大クラスは利用を止めてしまうだろう。若しくはある基準点をクリアしているかどうかだけを見るように使うだろう。同記事には

・・・いまさら詰め込み式、暗記方の勉強に戻せと言うのではない。大学の授業に対応できる程度の学力の有無を知識の量よりも思考力を測ることで見極める。そんな入試制度に改善することが求められている。・・・細部にわたる知識の量よりも、考える力、論理を組み立てる構想力などが要る。


とある。その方法論として最適だ。

まあ、共通テストとしての意味もあるだろうから、存続させたい人の意見はわかる、とだけ書いておこう。

だがひどかったのはこれを受けて書いたであろう、同じ朝日新聞大阪本社版・記事有論 2012.4.27「大学教育の質 外圧受ける前に自ら動け」 である。上記審議まとめについて述べた上で次のように書いている。
教員が真面目に学生に向き合うほど、自分の研究に割ける時間と労力は減るかもしれない。研究を深めなければ、教育も浅くなる。しかし、知識や学問の蓄積を授業に注ぎ、学生主体の教育に切り替える教員がもっと出てきてもいい。人材を育てて社会に送り出すことが、大学の大事な役割だ。その原点を疎かにしてきた結果、大学は「学生に主体的な勉強を」などと言う初歩的な注文を受けてしまっているのだ。

がっかりである。古くから言われているステレオタイプな大学教員像に乗って、現状を見ずに書いた妄想だ。しかもまとめがひどい。
大学は外部からの干渉を受けず、自由に教育内容を決め運営する「大学の自治」の原則がある。しかしこのままではその自由もおぼつかない。事細かに外圧で縛られる前に動かなければ、大学は大学でなくなってしまう。 後はない。

大学入試は高校以下の教育に大きな影響力を持つ。大学入試を受けない生徒に対してもである。ところがそのあり方を文部科学省が悪い方向に縛っている。「事細かに外圧で縛られる前に動」く話ではなく、「ひどい縛りがあるので身動きが取れないのをどうするか」が現状なのだ。

入ってくる段階で全くアサッテを向いている学生を、大学の間だけで、しかも3年弱でそんな立派な人間に育てるなど、ほとんど不可能だ。しかし留年率が高いと文部科学省から文句が来る。留年率が高いことが教育力の低さを物語っているという理由だと思うが、そうやって圧力を掛ければ、「アウトプットの品質保証」をせずに取りあえず卒業させてしまうことになり、結果的に社会全体にいい影響はない。もし、教育力が低いからなかなか卒業出来ないということになれば、勝手にその大学のブランド力が下がっていく。だからそこは自由競争でよいのだ。だが文部科学省はそういう風にはしない。あくまで統制一辺倒だ。

こんなことは、熱意を持って学生の前に立っている一線の大学教員なら誰でも言えることなのに、これを書いた社会部の山上浩二郎記者は全くそんなところに取材に行かず、先入観だけ記事を書いたように思われる。

だとすれば、確かに脳死だ。





デメリットは考えないのか [教育について]

どうにも忙しくて、書く時間というよりも考える時間が無くて、ネタはあるのだがなかなかブログ更新に至らない。

だが、今回は脊髄反射的にどうしても書きたくなった。

日経ビジネスオンライン 2012年4月11日(水)
「脱会議 Special Edition」 「IT断食」と「脱会議」の両方を妨げる組織の病巣
【3】ITも会議も手段であることを忘れてはダメ  横山 信弘  
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120409/230734/?P=1

会議をする。 ITを導入する。

必要ならば、それが意味を持つならば大いにすべきだ。しかしこういうものはいつしかそれ自体が目的になってしまう。

方法の目的化


である。残念ながら多くの組織において行われていることだ。

余計な話なのだが、私が勤める教育学部・教育学研究科というのは面白い組織だ。
我々のような数学屋だけでなく、文学から社会科学、音楽や美術や体育、医学に近いところ、もちろん理科系もバッチリ揃っている。

そこで面白いのは、それぞれの講座での会議だ。

ある講座は毎週教室会議(講座と教室は厳密には違うが、ここでは混同して使う)を開くそうだ。しかも毎回2時間も3時間も。

それに比べると、私のいる数学教育講座は、月例の会議すらやらない。所帯が7名と小さいこともあるのだが、何か決めるべきことがあったときにも、理を通した議論を基本とするので、わざわざ顔を合わせて時間を取ることはない。好き嫌いのレベルのことはどうしても必要ならば会議で戦わなくてはならないが、みんなが理を通すので、議論は簡単だ。前例の確認などは個別に情報収集をすればいい。色々な提案も一斉メールで理を通して提案すれば大抵済む。だから月例会議を設定することすら止めている。

どちらが優れているのか。言うまでもないだろう。要件以外のコミュニケーションを取りたければ、一緒に飯を食いに行けばいいし、飲みに行っても良いし、勤務時間中の突撃直談判だって済む。

ところがこの記事を読むと、それが出来ないというのだ。残念ながら頭が悪いというか何というか。

それはいいのだが、この記事を読んでいて、本ブログで常に叫んでいる電子教科書のことについてまた思い出した。

電子教科書のメリットはわかっている。だがデメリットも当然ある。しかし私がいくらデメリットについて説いても、誰にも伝わらない。個人的に賛成のレスポンスをくれる方はあっても、曽布川個人が少しばかりうれしくなるだけで、何をもたらしてくれるわけでもない。

話は電器屋さんと教材業者さんと一部のIT関係の研究者が騒いでいるだけだ。流行の言葉を使えば、この研究者は「御用学者」とでも呼ぶべきだろう。

デメリットについての検討は全く見かけない。

電子教科書導入ありき。


この会議の問題と全く同じ構造に見える。

一旦無批判に電子教科書を導入したら、この「脱会議」と同じで、簡単には後戻りできない。

重ねて言う。

誰かオレの杞憂を打ち破ってくれ。

ハシズムと訣別する [教育について]

橋下徹大阪市長の政治手法には問題があるが、それでも世の中を変えることを一度やらせてみたらいいのではないかと思っていた。しかしこの話にはいくら何でも呆れた。

日テレNEWS24 < 2012年3月20日 20:54 >
小中生の留年、習熟度別にすべき~橋下市長
http://www.news24.jp/articles/2012/03/20/04202266.html より。
 大阪市・橋下徹市長は20日、日本テレビ系列・読売テレビの報道番組に生出演し、小中学生の留年制度について「年齢別ではなく、習熟度別の学習にするべきだ」と述べ、学年という枠組みを撤廃すべきだとの持論を示した。  目標の学力に達していない小中学生に対し、留年制度を検討している橋下市長は、20日に出演した読売テレビの報道番組「かんさい情報ネットten!」の中で、「年齢だけでなく、能力ごとにクラス分けをして、習熟度を上げる」と述べ、学年別のクラス分けを撤廃すべきだとの持論を強調した。  橋下市長「学年をボンと下げるのではなくて、年齢によるクラス分けはもうやめましょうと。科目によって、年齢を超えたグループができて、そこで同じプログラムや科目を勉強すればいい」


残念ながら橋下氏は子どもを工業製品かサーカス小屋の動物のように思っているようだ。

能力が均質なクラスを作れば、「教育の効率」は高くなるだろう。しかしそこでいう「教育」は単にガッコのおベンキョが出来るだけのことだ。しかし社会に出る人間に必要な能力はそれだけではない。多様な人間がいるということを身をもって知ることが大切なのだ。

自分の恥を語ることにする。

私は公立の小学校から1976年に慶應義塾中等部を受けて合格した。中学受験を知っている人にとってうらやましい学校名だということは知っている。面白いのは、私が中学受験をした年はちょうどそれが激化に向かい始める年だったようだ。当時はビデオなどないから記録にないが、NHKで中学受験についての番組があり、どうもそこに、慶應義塾中等部を受験にいく私の姿が結構な長回しで映っていたのだという。自分は見なかったので詳しくは知らないが。

ただ当時はまだのんびりした部分もあって、四谷大塚の準会員(当時は一般生と呼ばれていた)になって、日曜にテストを受けに行くだけ。それもろくすぽ勉強していなくいて、会場に行く電車の中で慌ててテキストを読んでいたのだった。そんなのでも受かってしまうような悠長な時代だったので、崇められても困る。

言いたいのはそんなことではない。ご承知の方もあるかも知れないが、慶應義塾はちゃんと進級できるだけの成績を取っていれば、大学までノンストップで受験無しに進学できる。だからガツガツした受験勉強をしない。小学校教員だった父を小5で亡くし、それから公務員になって母が育ててくれたような私などからみれば、目もくらむようなお金持ちのハイソな家の子弟がその学校の大半だった。だからおっとりしたところがある。

そういう環境にいれば何となくそんな気になってくる。もちろん彼らと経済力では勝負できるわけもないが、考え方などは彼らにずいぶん感化された。

そうこうして大学を卒業し、大学院もほとんど推薦でスイスイ合格して来た私は、そんなハイソな集団が当たり前に思えていたのかも知れない。就職して以降、自分が狭い世界しか見ていなかったことを本当に恥ずかしく感じるような事件にたくさん遭遇した。

だから我が子には公立の小中高に通わせたいと思っている。余談だが、長男は取りあえず今般それに成功した。多様な友だちの中に過ごした長男は、色々と考えることがあるようだ。高校に進学してある程度似たような仲間と切磋琢磨するようになるだろうから、それはそれでまた良いと思っている。

だが義務教育段階で橋下氏の言うような制度には絶対に反対だ。むしろ

平松邦夫×内田樹「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2000
平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2050
平松邦夫×内田樹「『落ちこぼれ』こそがイノベーションを起こす」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2086

の方がはるかに良い。

そう言えば書かれていた。

「すべては同じ、「ウケ狙い」に端を発する行動である。」
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120221/1329782292

この見方に同意したい。そしてこれまで橋下氏の言動に是々非々の立場を取ってきたが、全面否定の立場に変更することを宣言する。

朝日新聞よ、これはまずいぜ [社会の問題について]

先に断っておく。

私は朝日新聞の長年の購読者である。

だがこれを見過ごさない力はあるつもりだ。

那覇地裁が、検察審査会による2度の議決によって強制起訴された件について無罪の判決を出した(2012.3.14)。これについて我が朝日新聞を見て目を疑った。記事を書き抜く。

今回の判決について、検察官役の指定弁護士は「市民感覚に基づく起訴だった点に踏み込んで判断してほしかった」と残念がったが、裁判所は有罪の証拠が足りないと判断し、無罪の結論を導いた。
大阪本社版に基づく)

この指定弁護士は本当に「判決に対して」こんなことを言ったのだろうか。まさかそんなことはあり得ないと思って、他紙を順に見た。産経、読売、日経にはこのことについての言及は見つからなかった。毎日には次のように書かれてあった。

強制起訴制度を巡って指定弁護士は公判で「国民感情や処罰感情からかけ離れない判断が求められている」と強調したが、判決で強制起訴制度への言及はなかった。


これが正しいのだろうと思う。そもそも検察が有罪に出来そうもないから起訴しなかったわけで、指定弁護士は最初から敗戦覚悟でこの仕事を始めたのだ。その状況において、公判内でこのような主張をすることは当然であり、刑事裁判においては当然の戦術だろう。しかし指定弁護士はあくまでもその「役目」で仕事をしているわけで、役目のために忠実に、可能なことを一生懸命やったと思われるのだ。それに対して裁判所側は当然、普通に裁判をする。

およそ弁護士とはそういう商売なのではないだろうか。依頼人の利益を一番に考える。それは刑事裁判の国選弁護人であったとしても使命は同じだ。山口県光市の母子殺人事件の被告弁護人に対して、ある弁護士(そののち知事になって今は市長だ)がテレビで被告弁護人への懲戒請求を呼びかけた件(2007年)など、そもそも自分の仕事のあるべき姿を忘れた最悪の事例である。

だからこの毎日の記事は妥当だし信じられるものだ。しかし朝日の記事は何だろう。指定弁護士が
これは市民感情からしてクロなのだから、有罪にしてほしかった

とでも言っているかのごとく取れる。

まさか。それじゃ魔女狩りじゃないか。みんなが言っているから有罪にしろ?法治国家としてそんなことが許されるわけもない。もし本当にそんなことを言ったのなら、それこそが懲戒請求すべきことではないか?

検察が裏でごそごそして決着を図ることへの批判はわからなくはない。だからこの強制起訴制度ができた。それに則って一生懸命仕事をした指定弁護士に対してこういうことをいうのか?

小沢一郎氏に対する政治資金規正法関連の裁判でも同じように強制起訴制度の下で検察役を務めている指定弁護士に対して、それを個人的に攻撃するような言説をよく見るのだけれど、それもまずい。彼らは役目に忠実に仕事をしている。個人的な感情・判断はさておきだ。

改めて言う。私は朝日新聞の長年の購読者だ。だがこんな記事を書いているとは情けない。

この議論にうっかり乗ってはいけない [教育について]

やっと気持ちの余裕が出て来たので、ネットを巡回してものを考えている。1年ほど前に読んだ記事。

白熱激論! 田原総一朗×孫正義「第3のパラダイム転換を迎えた日本」電子教科書は日本を救うか
vol.1 vol.2 vol.3 vol.4 vol.5 vol.6

ここで語られていることは基本的にその通りだと思う。我が国の行く方としては

日本の復活のためには、日本人全体のなかで国民の総人事異動をしなきゃいけないと僕は思うんです。つまり組み立てに立脚する労働者を育てるための教育ではなく、あるいは農業、漁業を中心としたところを育てるためでもいいと思う。製造業に重点を置きすぎた教育ではなくて、頭の勝負をするところに教育のコンテンツをシフトしなきゃいけない。
vol.2より

というのがあるべき姿だと思う。そのために教育はどうするか?となって、現状の「丸暗記教育」じゃあどうにもならない、問題を自ら見つける教育、自ら考える教育をすべきだという。これにも大いに賛成である。

しかし残念ながら電子教科書の類は必ずしもそのためのいい道具になるとはかぎらない。少なくとも数学においては。

最近の中高の数学は、公式暗記になっているという。その通りだと思う。暗記すれば出来る問題を出すから。そうでない問題を出すとみんな0点になって差が付かないから出せない。だから暗記系の問題になる。

それが電子教科書を使うと考えるようになるのか。

残念ながらそうはならない。数学の様々な「構造」は本を読んだだけではわからず、色々と計算をしてみて初めて「体得」できる。大切なのはこの「体得」だ。上辺の言葉の構造ではなく、実感として「わかる」こと。

そのためには計算方法を知り、自分で実行できることが大切だ。しかし電子教科書が導入されれば、その部分はコンピュータが代替する。よく
人間はコンピュータが出来ないことをすればよい

と言う。それはその通りだが、コンピュータが出来ないことをするには、コンピュータが出来ることをサボってはいけないのだ。そうでないと、本質が理解できない。

昨年出たTexas Instrument 社の最新型「グラフ電卓」(という言葉は古すぎる。パームトップコンピュータというべきか)を買っていじっている。

高校以下の数学の計算の大半をこれはこなしてしまう。電子教科書にその程度の機能を載せるのは簡単だ。すると当然生徒たちは自分で計算しなくなるであろう。コンピュータの進化により我々は漢字が書けなくなっている。しかし漢字で表される概念を知ることはできる。だが数学でそれが通用するのか?

総論賛成、各論反対の典型で申し訳ないのだが、誰か私の危惧を論破してくれないだろうか。

だから私はこの議論にうっかり乗らない。

留年ねぇ [教育について]

橋下大阪市長が、目標の学力水準に達しない児童生徒について、小中学校における留年させることを検討せよと指示を出したという。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120222-OYT1T00501.htm 2012.2.22 読売新聞ほか

尾木ママこと、法政大学・尾木直樹教授の意見を採り上げたとのことである。

これに対してネガティブな意見がたくさん見られる。これまで、「全員一緒」の幻想にとらわれてきた多くの人たちにとって、とても刺激的な意見だ。橋下氏の本意についてしっかりわかるわけではないが、彼の論調から導き出されたことからするとおそらく、

学校は勉強が出来るようになるのが目的なのだから、それが達成できなければもう一度やり直してもらうべきでしょう。それが義務教育の「義務」といういみなのだから


とでも言いそうです(これは私の全くの妄言に過ぎませんのでご注意を)。そういう考えに対しては必ずしも賛成できなくて、学力一本だけで人間の価値を判断する話になりかねず、非常に危険なことだと思うのです。結果は見えてます。

統一テストをやれ、それに合格したら進級だ →→  進級テスト対策のみが全てになる →→ 全体の教育の質が低下する


だから、このことに賛成したいなどとはこれっぽっちも思わない
しかしそれでも敢えて、この留年制度の利点について述べたいと思う。

最近お会いした方なのだが、ご子息に発達障碍があるのだという。年齢は中2だが大体見ていると小4ぐらいのことは出来るのだそうだ。だから曰く、就学年齢を6歳ではなく、8歳ぐらいからにしてもらえれば、おそらく特別支援学級にはそれほどお世話にならなくても、普通に過ごせたのではないかと。

このことはとても重要である。この手の文章を書くと、障害のある人は特別で、自分や多くの人たちとは関係がない、と言う人が多いようだ。しかしそれは違う。数多くの学生を指導していると、たとえば我が岡山大学教育学部の学生であっても、発達障害という言葉ではなく、得手不得手ということばで語られているにせよ、個々に色々な傾向を持つのだ(ちなみに本学部の学生の入試の偏差値は60前後だそうだから、並以上という評価なんだろうが)。

言いたいことは、「障碍」というのは、どこかで線が引けるようなものではないということである。お前は障碍者だから特別支援学校に行けとか、そういう区分をすることがナンセンスな部分があるのだ。

子どもが少なくなっていくこれからの時代、他人よりゆっくり成長する子どもを、ちゃんと見てやることも出来るのではないか。

そう思ったときに、留年だけでなく就学延期などがもっと広く認められていいと思う。

ところでおまけに言っておく。

愚かな日本では、そのうち「じゃあ飛び級は?」というのが始まるだろう。飛び級はいいが、そのうちそれがステイタスになってしまうことは間違いない。アメリカなんかではよく、12歳で博士号を取ったとかいう話が出てくるけど、その人、その後世界を大きく動かすような活躍をしたんだろうか。


注意: 私は「障碍」という字は好きでなくて 「障礙」って書きたいんだけど、変換されないので。もちろん障害なんて論外だけど。

五七調の衰退 [自分の生き方]

朝日新聞「天声人語」2012年2月17日付にこんな詩が引用されていた。

ひと晩に咲かせてみむと、 梅の鉢を火に焙りしが、 咲かざりしかな。


石川啄木「悲しき玩具」にある詩だという。むか~し、今から30年以上も前、高校2年の時に啄木を勉強したような気がする。私の出身校は楽しい観光旅行だけではなく、「研修旅行」と銘打って、一応お勉強する旅行だった。1年の時には箱根に地学と生物の巡検+日本史のお勉強。結構勉強した気がする。そして2年は全員で啄木を勉強し、途中から宮沢賢治も勉強した。旅行では自分は賢治の組で、花巻に行った記憶がある。そして「水仙月の四日」を読んで、何だか宇宙をコロイド視しているという感覚があるなあとレポートを書いたら結構受けたような記憶がある。この詩も当時見たことがあるのだろうが、残念ながら全く記憶にない。詩歌を知らないということはそれだけで教養が低いということだ。もちろんそれは曽布川のことを指す。

だがそんな話はどうでもいい。

検索してみると、この天声人語に共感した人たちの意見もたくさん見つかる(検索は読者諸氏にお任せしよう)。

それはもちろんステキなことなのだが、全然違うことを思ってしまった。

天声人語子はこの詩についてこう続ける。

3行書きだが、改行と読点をとばして読むと三十一文字のリズムになる


上述の詩は一応直接的に短歌だとは言っていないとしても、完全に五七五七七の短歌の形式だ。天声人語子はそれに気付いたという書き方だ。ガッカリである。

啄木について語る力などないし、それこそ高校生レベルから衰退こそすれ全く向上していないのだが、今改めていくつか啄木の詩を読んでも、万葉集のような生き生きとしたみずみずしさを感じる。

この歌のみずみずしさは、この歌が五七調のリズムになっていることに負うところも大きいと思うのだ。読者諸兄姉に向かって失礼な解説になるが、古い時代、たとえば万葉などの頃は五七調だったと言われている。それが時代がくだって古今などになると七五調がメインになったらしい。そのことは次の簡単な例でもわかる。以下、失礼な素人講義。

ちょっと季節がずれているが、持統天皇の有名な御製について。

春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天香具山

万葉集に載っているのはこの形だという。これはどう見てもこう書きたい

 春過ぎて夏来たるらし
 白たへの衣干したり
 天香具山

解釈は当然こうだ。

 春が過ぎて、夏が来たらしい
 (ほら)白妙の衣を干してるぞ
 天の香具山に

細部では専門家には叱られるかも知れないが、少なくとも句の切り方は当然こうで、五七、五七、7の「五七調」であることは明白である。

しかし、小倉百人一首では伝聞調の

春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山


となって、「衣」以下は「下の句」になってしまっている。

「白たへの」については、「衣」に掛かる単なる枕詞だという解釈をよく見る。
しかし小倉百人一首の切り方だと、「夏が来た」ということを「白い」が強調しているようにも見えて、歌の味わいが全く違ってくる。すなわち「白妙」が夏らしさを強調しているように見える。

いい悪いではなくて、そういう風に人々の感覚が変わってきたのだ。

ここではその理由を我流分析してみると次のようになる。

五七調で書かれたものは、次のように読まれたとみるのが妥当だ。

●●●●●×××●●●●●●●×
   ・・・・・
●●●●●×××●●●●●●●×
   ・・・・・
×●●●●●●●

音符のように見て欲しい。
●は十六分音符。×は十六分休符。ただし休符は完全な「お休み」ではなくて、最後の音の伸ばしも入る。テンポは四分音符=50か、もう少し遅くか。2行目の・・・・・はテンポのない休符と見てもらおう。

すると、ずいぶんゆっくりな読み方であることがわかる。いや違う。詠み方だ。

さて、忙しい人はこれをどうするのだろうか。キーになるのは、
2行目の・・・・・はテンポのない休符

である。急いでいる人、慌てている人はゆったり休んでいるわけにはいかない。だから

●●●●●×××●●●●●●●×●●●●●×××●●●●●●●×●●●●●●●×

となる。こうなると、読むときにどこかで息継ぎをしようとすれば当然

●●●●●×××
●●●●●●●×●●●●●×××
●●●●●●●××●●●●●●●

となる。これが七五調が主流になった原因に関する曽布川藤四郎説である。

いやいや、歌など詠むのだから急いでいるというのは妙だが、少なくともその人の精神状態が影響するわけで、精神状況には社会状況などが影響するのだと思う。

そこで。

天声人語子が知識として啄木と五七調について知っていたかどうかなんてどうでもいいし、他人の知識がどうだなんて言う資格がチョー浅学の私にあるはずもない。

だが、このコラムをちょっと見て、今の世の中、慌ただしくて生きづらい世の中なんだなぁとつくづく思ってしまった。

追記: リズムの問題について、少しわかっていなかったことがあって、修整を加えました。

やっぱりね [教育について]

ちょっと前の記事について。

朝日新聞 オピニオン 2012.2.8 山本孝昭氏 IT漬けが会社をダメに。「断食」を  
http://digital.asahi.com/articles/TKY201202070577.html
を読む。

私は昔から、子どもにはIT機器に触らせない方がいいそういう機会は出来るだけ遅い方がいいと言ってきた

それに対して 「そんなのは妄言だ!」などと名指しで罵る IT 関係研究者のえら~い人がおられたのだが、昔から本当によくわかった人は、この辺をわきまえていた。

古くはこの本。


インターネットはからっぽの洞窟

インターネットはからっぽの洞窟

  • 作者: クリフォード ストール
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 1997/01
  • メディア: 単行本



コンピュータが子供たちをダメにする

コンピュータが子供たちをダメにする

  • 作者: クリフォード ストール
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2001/11
  • メディア: 単行本



これらはあまりにも早い時期に出されたもので、特に悲しいことに2つめの方は絶版だが、未だに意味がある。

同じことを、日本のIT企業が言い出したことに意味がある。ちなみに故S.ジョブズはこれをとてもよくわかっていたのだ。

私は厳しい [教育について]

今期の期末試験。

学生は「丸暗記」を基本としていることは先刻承知。
意味がわからなくてもそれらしい文章を暗記しておけば何とかなるだろうという発想。
心の中から「わかった」という感覚がなくても、単位が取れればいいやという発想。

それをたたきつぶすためにこっちは存在してるわけ。
だって、そんなの無駄じゃん。その本を持って来て写せばいいわけでしょ。
昔、どっかの大学入試で問題になったように、それこそiPhoneで検索するとか本を呼び出せばいい。

それってさ、自分で「オレは無駄な存在です!」って言ってるのと一緒だよ。

そこで呆れたのはさ、この科目を逃げようとするヤツら。必修科目なのに試験を受けないヤツが多発している。あ~あ、残念ながら君たちはこの単位が取れないと卒業出来ないんだけど。

諸君の言い分はわかっている。それは曽布川が英語で講義をしているから逃げたいのだ。

だが残念ながら君たちはこうやって逃げても意味が無い。これまでこの科目は私の上の教授と交互に担当していたが、その教授も今年で定年。少なくとも来年は補充されないし、再来年も補充されない可能性が高い。従って諸君が3年になるまでは少なくとも私が担当するのだ。

かわいそうだけど、権力はこっちが握ってるよ。でもそんな権力なんてうれしくも何ともない。あるのは責任だけ。辛いだけだよ。でもね、こっちは力をつけさせて卒業させることが仕事だ。

世間では「大学で勉強したことは役に立たない」なんて言い切るヤツらがいるけど、うちで学んだ連中に聞いてもらいたいよ。そんなことを言うヤツがいるかね。

だから学生諸君の言い分を聞き入れるつもりは全くない。文句があるなら学長にでも誰にでも談判してくれ。私は誉められることはあっても叱られることはない。

私は個人的には大いに反対するが、文部科学省のプロジェクトとして、特に理数系の科目で英語で授業をする取り組みが始まっている。小学校では英語活動が必修だ。

今の世の中はこういう方向に向いているのだ。しかも科目としてこの科目は決して英語で講義をするのに不適切な科目ではない。むしろ最も適した科目である。それについても、大学で数学を講義している人のうち誰に聞いてくれてもいい。11月に授業公開をしたときに、英語教育の専門家が見に来てくれて、易しい英語表現だけで十分説明できるんですね、と感心していた。そういう科目だ。

だからこの方法を曲げるつもりはない。むしろ諸君の姿勢を強く非難する。 

若い学生のくせに、英語が怖いなどと言っていていいのか。

これからはそんなことを言うヤツは教師になれない。そのことがわかっているから私はこれを曲げないのだ。

私は構わない。諸君はそうやって逃げ続けていてくれ給え。何年でも岡山大学にいてくれたらいい。学費をたくさん払ってくれ。そういうと、お上から文句が来るんだよな。俺ら、神様じゃねぇんだから、厳しく鍛えて付いてこないヤツらは留年させるしかないんだよ。

とにかくここに宣言しておく。岡山大学教育学部中学校教育コース数学教育専修を卒業したかったら、英語だろうが何だろうが構わず立ち向かえ。

逃げるヤツは追わない。放っておく。単に卒業出来ないだけだ。留年者が多くなったり、転専攻などを申し出る学生が多数出て問題になったりしても私は怖くない。諸君の取り組みが甘いだけのことだ。厳に小学校/中学校教育コース数学教育専修の学生の多くは一生懸命やっている。そうした彼らには出来るだけの手助けをする。親身になって一生懸命アドヴァイスをする。

たとえばこのサイトを読んでみよ。教師は少なくともここで言う「上から20%」でなくてはならない。橋下徹氏の言うように、教員評価で下位の何割かは免職だというはなしじゃないか。そんな方向に進もうとしている(私は橋下氏の改革の基本は間違っていないと思うが、教員に対する評価については賛成できない。しかしそういう方向に向きつつあることは事実だ)のに、今こんなところで逃げている場合ではない。

歯を食いしばってやって来たヤツらだけが社会から認められる。大学受験はもちろん頑張ったかも知れないが、それで教育界で必要とされる能力が身についたわけではない。頑張りました~と言ったところで意味はない。それなりに~なんてのをつけたら、クズ呼ばわりされるだけだ。学校現場でやっていくだけの基礎的な力を身につけたかどうかが問われている。それを今ここで身につけようとしているのだ。

曽布川がいうのは古臭いと言えるもんなら言ってみろ。今まで日本の大学で英語で講義をするなんてのはほとんど無かったわけで、日本でも最先端をやっているのだから。

重ねて言う。「大学の勉強なんか役に立たない」と声高にいうバカ教師がたくさんいる。そんなことを平気で言うヤツらはこれから橋下流で淘汰されるだけだ。そういうヤツらが学校現場で害毒を流していることも事実だし。

そいつらと同類になりたいのならそれでいい。



あ~あ、吠えた (笑)

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